肌寒さに意識が浮上する。 ブランケットからはみ出した上半身が外気に冷やされ、それでいて腹回りは不思議と暖かい。布だけでは説明がつかない心地よさに目覚めを促されて、ゆるゆると瞼を開ける。薄暗く霞む視界の中で、とっくに燃やすものを失くした暖炉が炭だけを残して赤く点滅しているのが見える。 じっくり燻された木片の良い香りを吸いこみ、朝いちばんの大あくび。ソファから身を起こそうとして、なにやら引っかかりを感じて視線を下げる。 どうやら自分の片手がはるかに大きな手のひらに捕らわれているのを理解した頭が、驚きのままに声を上げさせなかったのを誉めたい。すぐ向こうには、腹に擦り寄るように布に半分はまり込んだキバナの寝顔が見える。今までにない至近距離に、さっきまでの眠気なんかあっという間に空の向こうに飛んで行ってしまった。 いつもは私に気を使ってくれてだろう、夜は早めに自室に引き上げてそのまま休んでいるのに、どうして。なんだか隠されていたものを見てしまった気持ちになって、思わず目をそらす。それでいて何も変わらない状況に、おそるおそる目の前の寝姿に目線を戻す。 器用にあぐらをかいた足の間にフライゴンを抱え込んで、もたれるように大きな体ごとソファに寄りかかっている。好奇心のままに忙しなく表情を変える空色の眼は今は閉じられ、太い眉毛も緩められて、薄く開いた唇から尖った歯を覗かせる様はどことなくあどけない。いつもは高く結われている髪が解かれて、若干くすぐったそうに首元に降ろされている。彼の子供の頃をついぞ知ることはないが、なんとなく寝顔はずっと変わっていないのだろうなあ、と想像する。 昨晩は、どう過ごしていたのだったか。暖炉の前のソファで本を読んでいて、いまいち集中できなくて全然進まなくて、そのうち眠たくなって。ドラパルトがもう寝よう、と擦り寄ってきて…その後は覚えていない。キバナは夜間見回りの次の日だからか、珍しく早めに帰ってくる予定だった。夕飯は何か美味しいものを買って帰るからそのまま待っていて、と言われた台詞を思い出す。…はたして、自分は待っていたとは言い難い。 仕事帰りに待ちぼうけさせてしまったのだとしたら申し訳ない。せめてブランケットを譲ろうとして、片手が動かせないままなのを思い出す。触れ合っている部分をまじまじ観察すれば、濃褐色の指はどれも自分とは比べるまでもなく、太く長い。それだけでなくとても温かくて、どうしてかと言えばそれは彼の体温が高いからで、考えれば考えるほどに手の甲から伝わる温度が自分の中で熱を持ってきて、そのうち大柄な呼吸の振動まで伝わってきて。 無性に恥ずかしくなって、じわり顔が熱くなる。ゆっくりゆっくり、手首をねじりにねじって緩い拘束から抜け出す。なんとかソファから抜け出して予定通りブランケットを譲渡したは良いものの、自身の時よりも明らかに包める部位が少ないのに笑いそうになる。辛うじて胴体の前面が隠れただけで、長い手足がなんにも覆えていない。合間に見えたフライゴンのまあるい頭はパートナーの腰に巻き付いて、心底気持ちよさそうぷうぷう寝息を立てていて、なんとも羨ましい。 そういえばとドラパルトの姿を探したら、さっきまで自分が寝ていた座面からはみ出た緑の尻尾がウネウネしている。たぶんソファの中でまだまだ夢の世界だろうから、そのまま寝かせておくことにした。 全身自由になった記念にもう一回あくびをして、音をたてないように部屋の窓を開放する。淡い橙から青空に変わろうとしている早朝の街並みが、爽やかな風に乗って室内に新鮮な空気を運んでくる。ナックルの街の天気はあまり崩れることなく、いつも穏やかだ。少し前まで日常の一部だった活発な気象変動は、ワイルドエリア特有のものだったらしい。鳥ポケモンの朝鳴きと一緒に、動き始めた人々の控えめな活動音が遠く響いてくる。自然の中に暮らしている時とはまた違った目覚めのざわめきも、悪くない。 気のすむまで外の景色を眺めてから、太陽を独り占めするように窓前を陣取っている星形のでこぼこした岩に小声でおはようと声をかける。間を置いてにょっきり首が伸び、起きたての若干不機嫌そうな半目がこちらを一瞥、ゆっくり頷いて返事をよこした。この家に来てバクガメスに初めて会った時、正面に向き合って挨拶したい私と、回り込むたびに甲羅を前に座りなおす彼とで、しばらく文字通り堂々巡りになったのは記憶に新しい。腹に弱点があるからさ、シャイな奴だと思って後ろ向きで許してやって、と仲裁するにしては肩を震わせてながらしっかりスマホロトムを構える家主の姿は…できれば忘れてしまいたい。 日差しに棘を震わせてうっそり動き始めた姿を尻目に、今度は暗所に置いていた大籠を撫でて中を覗き込む。暗い中に黄色い眼がパチクリ浮かび上がって、早起き組のドラメシヤ達がぬるりと這い出てくる。まだみんな寝ているから静かにしていようね、と小さな頭を指でうりうり撫でればみんな元気いっぱい、嬉しそうに足に擦り寄って低い体温を分けてくれた。 水を貰おうと廊下に続く扉を開けた途端、また喉からびっくり声が出そうになって、慌てて口をふさぐ。水場に続く通路の天井との境目がまあるく盛り上がって、細かな砂を零している。私よりもキバナよりも、何ならこの家の誰よりも長い体を持つサダイジャが、廊下の形そのままに貼り付いていた。リビングから始まって角を曲がり、手洗い場近くまで伸びている蛇腹は、まだ朝の砂浴びをしていない所為かいつもよりほそっこい。最後にようやく出会った大きな頭に挨拶すると、今日はあんまり驚かなかったね、とばかりに二股の舌を揺らしてにんまり笑われた。酔っぱらって尻尾を踏んずけたまま抱き着いて寝こけたことがあるという飼い主程この巨体に慣れられるのは、ちょっとやそっとじゃ無理だと思う。ポケモン同士気配で分かるのか、ドラメシヤたちは早々に驚かなくなってしまったので、それもまた悔しいものがある。 気を取り直して顔を洗い軽く身支度をして、スッキリした頭でさあ、今日の朝は何をしようか。 まずはここ最近忙しくお疲れ気味に見えるキバナに、昨日待っていられなかったお詫びの朝ご飯をつくろう、と思いつく。ガラル定番のメニューなら読んでいる本に乗っていたし、キバナが作っているのを何回か見ているし。きっと大丈夫だろう。 ついでに水浴びしてご機嫌なドラメシヤと一緒に意気込んでキッチン台の前に立つと、既に起きていたヌメルゴンがこちらに気づいて歩み寄ってきた。ドラメシヤはすぐに彼女の元に飛んで行って、朗らかに鳴き合う。大ぶりな尻尾に巻き付かれるのが、最近のお気に入りだ。腕に巻き付くドラメシヤを揺らして笑顔であやす姿に、どうしたらあなた達にお礼ができるかな、と思わず呟く。 いきなりの大所帯で押しかけたというのに、こうしてなにかと相手してくれて、感謝してもしきれない。キバナへのお礼も見当がつかないのに、彼女達は一体何をしたら喜んでくれるだろうか。ゴーストタイプのポケモンは人の心の動きに感情を見出すから、どうすれば良いかはなんとなく分かる。でもキバナのポケモン達は肉体的にも大きく強靭で、今まで身近に触れ合ってきた子たちとは、人と生活していることを抜きにしてもだいぶ毛色が違う。とりとめもなく考えていると、おもむろに一冊の雑誌を持ち出して、こちらを見つめてくるにっこり顔のヌメルゴン。体のぬめぬめに負けないくらい、緑色の眼が輝いている。 若干しけってよれよれになったページを促されるままにめくると、ポケモンと一緒に食べられるパンケーキの絵の上で短い指が止まった。あのね、お礼って言ってもそういうのじゃなくてね、と説明しても、笑顔のままきょとんと首をかしげるだけ。かわいい仕草に困って視線を外すと、いつの間にか背後にジュラルドンとギガイアスの巨体が立っていて、それはもう飛び上がるくらい驚いた。ここのポケモン達はみんな、人をおどかそうとしているとしか思えない。ポケモンとトレーナーは長く過ごすと似てくると言うけれど、そんなところまで似なくてもいいのに。 ヌメルゴンと違っていかつい見た目なのにぱっかり大口を開けて、それでいて目はきらきら、すごく眩しい。彼女にしたのと同じ説明をして、もっとちゃんとしたお礼をね、と言っても、同じように首を傾げられた。言いたいことが通じない私の頭も一緒に傾いた。大きなポケモン三体に囲まれて逃げられない!なんて台詞が頭に浮かぶ。…これはもう、作るよりほかに逃げ場はないだろう。 人間はともかく彼らの食べ物まで作ってしまって良いのか気になったけれど、特定の期間以外は好きに食べさせているとは既にキバナに聞いていた。一緒に食卓を囲むことも多いから、今は大丈夫な時期なんだろう。手を進め始めた私を見た三匹のポケモンはようやく囲みを解いて、お話ししながら大人しく待ってくれるようだ。傍から見ると、渦巻きの貝殻と金属と石にドラメシヤがたかっているようにしか見えない。 普通に大人向けに書かれている雑誌の文章に私がつまづくと、かわるがわる身振り手振りで教えてくれる。…ジュラルドン以外の仕草は正直いまいち分からなかった。 「いーことしてんなぁ、お嬢さんがた」 「おはよう、キバナ。よく眠れた?昨日は先に寝ちゃってごめんなさい。びっくりしちゃった、起きたらすぐ近くにいたから」 「おはようさん、まあまあ眠れたかな。なんか疲れてそのまま寝落ちしちまった、悪い。なに作ってんの?…雑誌のパンケーキ?」 朝からねだったなおまえら、と若干力を入れてぐりぐり撫でまわすキバナに、だって食べたかったからと抗議の甘噛みをするみんな、上機嫌な表情はやっぱり似ている。 「私も食べてみたかったの。ポケモンと一緒に食べれるご飯なんて、木の実とカレー以外にもあるんだね」 「最近流行ってきたからな、カレーはその火付け役。タイプ違いで中々避けるもんも多いけど、こっそりつまみ食いとかじゃなくて、やっぱおんなじ飯食えるなら食いたいもんなあ」 「ドラメシヤが食べられないものが少なくてよかった…そういえばみんな用に沢山作っちゃったけど、良かった?」 「ん、大丈夫。…ありがとう、起きたばっかで大変だったろ。材料が手軽な割にあいつら結構喜ぶから、朝の定番になりかけてんだ、これ」 「そうなんだ、じゃあもっと上手に作れるようにならなきゃ。少しも焦げずに作るの、難しいねえ」 「ちょっとくらいならウマいもんよ。気にすんな」 手慣れた様子で食器棚から大皿を用意するキバナ。普段は人ごとのお皿を出すけれど、今日はみんなで取りやすいようにめいっぱい並べて、大喜びで先導するヌメルゴンに続いて二人でテーブルに運ぶ。どこからかサンドイッチも追加されて、すっかり豪華な食卓になりそうだ。…そういえば、朝手を握っていたのは黙っておこう。どちらも寝ぼけて、覚えていないかもしれないし。 一部のお寝坊さんを除いてほぼ全員が大きなテーブルにつき、家主の一声で賑わしく朝ご飯が始まる。キバナのポケモン達はみなお気に入りがあるらしく、それぞれ手慣れた様子で味付けしてはかぶり付く。おいしいと次々に声が上がって、なんとも嬉しい。ドラメシヤとドラパルトは色々な味を試したい盛りで、ちょっとずつ周りから分けてもらってはじっくり欠片を楽しんでいる。 ひるがえって、キバナの食事の姿は大人しい。どこかで読んだ礼儀作法の本のような堅苦しさはなく、それでいて手本のような所作は変わらない。彼がたまに口にするガラル紳士というのを体現したら、きっとこのような姿形になると思う。屋台で軽食を摘まむ時なんかは豪快な姿も見せるので、場面によって彼も色々な自分を楽しんでいるのかもしれない。 自分の向かいで優雅に操られるナイフの軌道を目で追う。たっぷりのバターを掬い、皿に帰る途中でジャムに寄り道して、ちょうだいとせがむヌメラを華麗に通り越してパンケーキに塗りつけられる。大きな口がそれを咀嚼する横で、切り返した指の背が別のジャムを掠め、ヌメラの開いたままの口にうやうやしく差し出される。ゆっくり、ゆっくり、色鮮やかな果実色が舐め取られていく様を眺めていれば、おやのヌメルゴンと同じ味が好きで、でも幼体には糖分がありすぎるから専用のものを与えている、との解説が挟まれた。 "ナックル丘陵は終日強い雨。キャンプをする人は服装に注意、または街に泊まるとよいでしょう。げきりんの湖は激しい吹雪となり、数日続く見込みです。ギャラドスの個体数が平均観測値を超えたため、入域規制がかかる見込み。巨人の帽子は…" 『ナックルの丘はずっと大雨。キャンプの時は服に注意、または街に宿泊する。げきりんの湖は強い、えー…なんだっけ、氷の嵐の、』 『吹雪かな』 『それだ』 『吹雪、そんなに珍しい?』 『少しな。けどあそこのポケモンはみんな強いから。他と同じ天気でも制限かけたりする』 最近ようやく慣れたテレビからは、ワイルドエリアの天気予報が絶えず流れてくる。不意の荒天に備えたい街の人は多く、どの時間に見てもだいたいどこかで放送しているらしい。キバナの古代語が音声に追尾してくれて、自分の理解がそんなに間違っていないのにほっとする。 ナックルの街が接している地域の予測が一通り終わり、エンジン側の簡素な紹介に切り替わる。見張り塔の天気は、ナックルと同じ穏やかな晴れ。今日のパンケーキ、塔でのお茶会のみんなにもご馳走したいな、とふと考えた。最後の一切れをヌメルゴンお勧めの味で終わらせて、食後の紅茶で一息つく。同じようにカップを掲げていたキバナは頭上にビックリマークを出して、スマホロトムで何かを調べ始めた。 「そういえばさ、今度ナックルジムに来ないか?なんやかんやあったからすっかり忘れてた」 「同い年くらいの女の子がいるんだっけ。行きたいけれど…忙しくないの?夜の見回りとか」 「それは持ち回りで毎日やってるから大丈夫。今のうちに来てくれた方がこっちは都合いい。そろそろ…、あ、丁度特番はじまるな」 大人しかった口調の天気予報が終わって一転、勇ましい曲と共にどこかの大きな広場が映り、ダンデさんが画面の中央に登場する。ポケットモンスターの世界へ、ガラル地方へようこそ!と勢いよくモンスターボールからヒトカゲを出して、ポケモンバトルの楽しさを力説しながら堂々と闊歩する。以前会った時とは随分雰囲気が違う、好戦的な金の瞳がこちらをわし掴むように真直ぐに向けられる。気圧されて思わずキバナの方を見れば、同じような鋭い目つきをして呼応するように映像に食い入っている。 ジムチャレンジという言葉と内容、期間が大写しになり、盛り上がる音楽と共に沢山の街の風景が次々流れていく。最後に見慣れたナックルの城塞が映ったと思えばまた広場に戻り、三つ指を天に向けたポーズを大きく決めたダンデさんの姿を最後に暗転。少しの空白の後に、静かな音声と共に再び何かの番組が始まった。 あっという間に過ぎ去ったインパクトに、しばらく唖然とする。息を詰めるのをやめた自分の呼吸が、やけにうるさく耳につく。すぐ隣で見ていたドラパルトの表情は、特に変わっていない。 「…今のはショート版だけど。ガラル全土をあげての一大イベント、ジムチャレンジ。選ばれたトレーナーが自分のパートナーとなるポケモンと一緒に、仲間を増やしながらシーズン中に各街を巡ってバトルの旅をする。ジムトレーナーとそれを束ねるオレ達ジムリーダーはその道行きを見守り、時には援護して、その身で以て関門の役割を果たす。最後には皆で一緒くたに激突し合って、残った一人がチャンピオンに挑む。そのバトルに勝った奴が、次のチャンピオン!」 な、単純だろ?因みにナックルは最後のジムで、さっきのダンデは少し前まで長いことチャンピオンをやっていて、この時期のジムはチャレンジャーの情報を逐一共有発信するから一気に忙しくなって…とにこやか顔に戻ったキバナからこともなげに大きな情報がぽんぽん出てくる。そろそろ本当について行けない。 待ったをかけて一つずつかみ砕いて説明してもらいながら、彼と出会ってからのあれこれを思い返す。古代語、ドラメシヤ、それにまつわる出来事を除くと、彼は常にナックルの街と、それとは別の大きな何かに沿って行動していた。 まだ暇な時期なんだ。 今は時間があるから。 今のうちに。 ジムチャレンジがその"何か"なのは、間違いないだろう。淀みなく解説を続ける顔は上気して、自分が二番手の立場なのを甘んじていると口では言いながらも眼差しは強く、確固たる誇りを持っているのは想像に難くない。 *** 今日も今日とて話が弾んだからか、いつの間にかキバナが家を出る時間が迫っていて、慌てて用意を手伝う。いつものジャケットを脇に抱えて、大きな背中の241の数字が日差しを浴びてクッキリと浮かび上がっている。それぞれの朝の運動も終えてすっかり力の入ったポケモン達は、とうに腰のボールホルダーに集合していた。 大きな手荷物には、ドラメシヤのみんなが入ったモンスターボールが詰め込まれている。これからのポケジョブからのひとり立ちに向けて、少しずつ私から距離をおく訓練の一つで、最近は半分くらいの時間を彼の職場であるナックルジムで面倒見てくれている。大変ではないのかと聞いても、バトル施設らしく広いフィールドに検診設備もあるし、他のドラゴンポケモンも数多く在籍しているから性格や個性を掴むにはかえってちょうどいい、とのこと。うっかりすり抜けてまた迷子になったりしないか、フードが嫌だと駄々こねていないか。中々心配なところも多いけれど、私よりもはるかに育成に慣れている人たちばかりなので、もう厚意に甘えることにしている。 ジムのこと考えておいてな、どこかで予定空けるようにするから、と言い残して家主は外に繰り出していく。家の中には私とドラパルトだけが残され、テレビはもうついておらず余韻も残っていない筈なのに、熱意と興奮がまだ尾を引いている感じがした。 トップジムリーダーと呼ばれた彼の呼称が、ようやく意味を持って腑に落ちる。いや、ウソだと思っていたわけでは勿論ないが、ナックルで一番強いトレーナーだと言われて、分かったつもりでいても実感できていなかったと言うべきか。たくさんの彼の実績に対して改めて尊敬すると共に、なぜそんなに凄い人がこんなに助けてくれるのだろう、という思いは変わらず大きくなるばかり。 理由は簡単、私が帰る家がなくなったからだ。みんながいっぺんにいなくなって閑散としたリビングで、定位置のソファの上で大事にしまっていた書類をめくる。何処にもいくところが無くなった私に、新しい住処が見つかるまで自分の家に来ないか、と誘ってくれたキバナ。先の問いに彼は、困っている人を庇護するのもジムリーダーの務めだから、と答えた。だから自分のところが嫌ならどこでも好きな街を選択できる、カブさんのところでも、それ以外でも。そう言われても、私はキバナとナックルの街以外の選択肢は考えられなかった。これ以上のやさしさに甘えてしまうのは、と竦んだ心を追い越すほどに、見知らぬ場所はもう嫌だった。 ドラパルトと一緒にその大きな手を取り、ナックルに移動することを決めた時に渡された、今の自分を人の街で証明するための書類と身分証。故郷を失くした遭難者やあてのない旅人、外国からの留学者がガラル地方に居座りたいと望んだ時、街で一定期間の行動観察を経て、問題なければ住民としての資格を得ることができるらしい。当人がポケモンを持っていれば街のジムリーダー管轄になり、各ジムのマーク入りの仮身分証が与えられて手持ちポケモンに適した仮住居が紹介してもらえる。ちなみに手持ちのない人間であればジュンサーさんとおまわりさんの管轄になって、オトスパスマークのカードが与えられるらしい。 名前は自筆、年齢はよく覚えていない、今のところ無所属、背格好はエンジンの病院で計測してもらったままの数値、と不審だらけな気もする自分の身分証の末尾にはドラゴンの頭角の形をした判と、保護観察者としてキバナの署名が並んでいる。自己紹介代わりのカードにいつも描いているポケモンの似顔絵風サインではなく、簡素な流線形で綴られたキバナの名前。なんとも不思議な感じがする。 今の自分がやらなければいけないのは、食事や掃除等の少しの手助けと、職を得て一人で生活できるようになるまでの力を身に着けること。そして少しでも早く、数多の恩に報いる手段を増やすことだ。 身分証を元通りしまって、書斎から拝借した本を広げる。分厚い手触りの中ページをめくっていけば、活字の現代語が一気に私の中に流れ込んできて、分からない単語が小さなささくれになって降り積もっていく。予想と文脈を継ぎあてながら、深く深く、キバナの住む時代に、現代に自分の価値観を合わせていく。 今日の題材は天気とポケモンのわざの関係、それによる人の暮らしの変化について。パンケーキといいジムチャレンジといい、街も人も、ポケモンと一緒に生きるのが日常となっている。かつて塔で先生に世界を教わっていた時には、ポケモンは天変地異を巻き起こす頼もしい存在であり、敵に大いなる力を与える恐るべき精霊だった。更に昔は自然の化身と畏れられ、拝む対象であったとも。どちらかというとドラパルトと私の友達のような、親密な方が例外というような口ぶりだった。ところがひとたび街に来てみれば、ワイルドエリアは恐れられているものの、小さな子供でもポケモンと一緒に遊びまわって、家族と何ら変わりない。 まるで自分だけがタイムスリップしたような、それでいて友人になってくれた沢山のポケモンの顔ぶれを思い出して、なんとなく納得したような。強い絆でもって息の合った技を鍛え競い合う、ポケモントレーナーという存在が近代に出てきたのは、きっと自然な事だったんだろう。 その中でも頂上に位置するキバナと、そのライバルのダンデにジムリーダーたち。本気の彼らのポケモンバトルはまだ見たことはないけれど、きっと信頼を超えた確かなもので結ばれているに違いない。 ほんの少しでも彼らを助けられる存在に、早くなりたい。ならなくちゃならない。 隣で集中して絵本を眺めているドラパルトに倣って、自分も再び文字の海に身を投じた。 ← ▼menu → |